社会の背景  3

   ウィスコンシンのラディカルの政治 1

ロバート・マリオン・ラフォレット・シニア(1855-1925)

 

政府に対する企業の支配が増大することに反対した最も重要で尊敬される指導者とされている。ウィスコンシン州知事(1901-1906)およびの上院議員(1906-1925)を務めた。

 

知事としてのラフォレットは数々の進歩的改革を実行し、最初の労働災害補償のしくみ、鉄道手数料の改良、直接立法、市自治憲章、開かれた政府、最低保証賃金、党派に拠らない選挙、開かれた予備選挙のしくみ、、女性参政権および進歩的税制度を打ち樹てていった。1920年代の末期までに全米で最も啓蒙された人道的なウィスコンシン行政を樹立した。

上院議員の間には、アメリカが第一次世界大戦に関与することに強く反対し、児童労働法、社会保障、女性参政権およびその他の進歩的改革を推進した。

馬車の上で空に向かってこぶしを突き上げる力強い演説のスタイルからFighting Bobと呼ばれた。

 


1924年アメリカ合衆国大統領選に、自分で作ったプログレッシブ党の大統領候補として出馬し、一般投票で17%を獲得した。


Robert Marion La Follette  Sr.がウィスコンシン州知事を自ら辞任し、ウィスコンシン州上院議員となった際、Washington D.C.に両親は住まうことになり、3人の子供たちは1時期、ライトの叔母たちが運営していたHillside Home schoolに預けられた。 1906


ベル・ケース・ラフォレット(ロバート・ラフォレットの妻)

 

法律家、女性の参政権運動、第1次世界大戦時の平和運動に携わった。ニューヨーク・タイムスは、良く知られていないが公のことに関して最も影響があったアメリカの女性としている。

ウィスコンシン大学卒業後、タリアセン近郊のスプリング・グリーンで高校教師、バラブーで中学教師をしていた。 



ウィスコンシン・アイディア

 

進歩的政策を発展させるときに州政府とウィスコンシン大学との密接な連携の雰囲気を作り、これはウィスコンシン・アイディアと呼ばれることになった。

ウィスコンシン・アイディアは研究者や専門家の関与を通して法制の根拠を作る概念に発展した。この計画を実行するためにラフォレットはウィスコンシン大学マディソン校との共同作業を始めた。このことでウィスコンシン州は「民主主義の実験室」となり、「進歩的法制の発展に最も重要な州」ということになった。


ウィスコンシン大学側の中心人物は経済学者John R. Commonsであった。ウィスコンシン州の労働、公益事業、経済などに関する政策の策定に関与し、全米の模範となる公益事業法、失業補償法等を立案した。この下から多くのニューディーラーが出た。ライトの友人。