1. ブロードエーカー・シティーとは


 フランク・ロイド・ライトは1932年、妻オルギヴァンナの助けを得て、自給自足をしながら建築の教育と実践を行う建築塾(タリアセンフェロシップ)を始めます。最初に23人の弟子(apprentice)が集まりました。大恐慌の真只中のことでした。このタリアセンフェロシップによって行われた最初の重要な仕事が1934年のブロードエーカーシティーの模型の製作です。 

 ブロードエーカーシティーの模型には、産業や経済のために人が集められている都市を避けてその機能を田園に分散させ、大地に密着して自立した生活をするという民主主義に対する考え方が表されています。

 この模型は全米各都市で巡回展示され、その後のアメリカの都市計画に一定の影響を与えたとされています。しかしながら、ヘリコプターが飛び回る未来的なパースや読みづらい著作が災いしてかその考え方が表面的にしか理解されないうちに、第2次大戦が始まり大恐慌が終わりました。

 ブロードエーカーシティーの模型は、ライトの後期の仕事にとって重要な意味を持つもので、この模型の中に後に全米各地に実現していった多くの建物の原型が点在しているのを見ることができます。

 ブロードエーカーシティーの背景には小農家が重要な担い手であるとするジェファーソンの民主主義や、大恐慌の時代に多くの人々が取り組みその後第二次世界大戦により中断した20世紀前半のアメリカの民主主義の発達(ウィスコンシン州の革新の政治など)があります。ライトは、ブロードエーカーにおいてアメリカの同時代の最良の思想と最良の社会活動と信じたものに建築と社会の形態を与えようとしていました。

 ブロードエーカーシティーの理解なしにライトの建築の本質の真の理解はされないと言って過言ではありません。ライトは自分の建築を民主主義のための建築と呼び、その後半生、施主と一緒にブロードエーカーシティーを作り続けていたと言えるでしょう。   

 ※  ・・・ライトはBroadacreCityに関しThe Disappearing City (1932)When Democracy Builds (1945)、The Living City(1958)の3冊の本を出版しました。