1. ブロードエーカー・シティーとは

 フランスの神秘主義者グルジエフのもとで学んだ妻オルギヴァンナの協力を得て、ライトは1932年自給自足をしながら建築の教育と実践を行う建築塾(タリアセンフェロシップ)を始めます。最初に23人の弟子(Apprentice)が集まりました。 大恐慌の真っ只中のことでした。 このタリアセンフェロシップによって行われた最初の重要な仕事が1934年のブロードエーカー・シティーの模型の製作です。
 ブロードエーカー・シティーの模型には都市の集中をさけてその機能を田園に融合させ、大地に密着した生活をするという民主主義に対する考え方が表されています。
 この模型は全米各都市を巡回展示され、その後のアメリカの都市計画に一定の影響があったとされています。しかしながら、残念なことに田園の中に高層建築が点在しヘリコプターが飛び回る未来的なパースや読みづらく冗長な著作が災いしてか、その考え方は表面的にしか理解されないうちに第2次大戦が始まって大恐慌が終わりました。現在は多くの場合、ただ最も低密度の自動車社会の都市計画とだけしか理解されていません。
 しかしながら、ライトにとっては大変重要なテーマであり、ライトはブロードエーカー・シティーに関する本を3回にわたり出版しています。Disappearing City 1932、この本に基づいて模型が作られました。その後、When Democracy Builds1945、The Living City 1958)と2回の改訂がされ1959年に亡くなる前年まで加筆を続けています。
 ブロードエーカー・シティーの背景にはジェファーソンの農業の思想や、大恐慌の時代に多くの人々が取り組みその後第二次世界大戦により中断したままになった革新の思想などがあります。ライトは、ブロードエーカーにおいてアメリカの同時代の最良の思想と最良の社会活動と信じたものに建築と都市の形態を与えようとしていました。
ブロードエーカー・シティーの模型は、ライトの特に後期の仕事にとって重要な意味を持つもので、この模型の中に後に全米各地に実現していった多くの建物の原型が点在しているのを見ることができます。 ブロードエーカー・シティーの理解なしにライトの建築の本質の真の理解はされないと言っても過言ではありません。 ライトはその後半生、自分の建築を民主主義のための建築と呼び、施主と一緒にブロードエーカーシティーを作り続けていたと言えるでしょう。 
 ブロードエーカー・シティーの中には、資本主義が行き詰まりを見せ地球に限界がある事が解った現在、社会の未来を模索し始めている我々にとっても示唆となるものが多く含まれていると思われます。 
Broadacre city の模型
この大きな模型は現在ウィスコンシン州、タリアセン、ヒルサイドスタジオのDana gallery壁面に垂直に置かれている。模型の右側にはA NEW FREEDOM FOR LIVING IN AMERICAのパネル、ドアをはさんで思想家のリストのパネルが見える。
模型の大きさ 12フィートx12フィート8インチ
(8インチはC,D端にあるフリーウェイ分)3.66m x3.86m
縮尺 1/900 2マイルx2マイル 
面積 : 4スクウェアマイル 40x64エーカー=10.36 k㎡
ユニット: 1エーカー= 165x264=43、560sf=4047㎡=1235坪/人 (50.3mx80.5m)
     例えば日本の国土の人口密度に置き換えると
37万平方kmx0.25(利用可能な割合)/13000万人=711m2/人